阪神タイガースで活躍した横田慎太郎選手をご存じでしょうか。
将来を嘱望されながら脳腫瘍との壮絶な闘病を経験し、わずか24歳という若さで現役を引退しました。
しかし引退試合で見せた「奇跡のバックホーム」と呼ばれる伝説のプレーは、多くの野球ファンの心に深く刻まれ、今なお語り継がれています。
本記事では、横田慎太郎選手のwiki経歴と学歴について詳しく紹介していきます。
Contents
横田慎太郎のwiki経歴
横田慎太郎選手の野球人生は、栄光と挫折が交錯する感動的なものでした。
プロ入り後は順調に成長していましたが、22歳で病魔に襲われます…。
ここでは彼のプロ野球人生について振り返ります。
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プロ野球選手としてのキャリア
横田慎太郎選手は2016年に開幕一軍スタメンの座を掴みました。
プロ最初の2年間は二軍で修業を積んでいます。
転機となったのはプロ3年目の2016年。
春季キャンプから頭角を現し、開幕戦で「2番・センター」としてスタメン出場を果たしました。
同じく若手の髙山俊選手と組んだ1・2番コンビは、阪神ファンに新時代の到来を感じさせます。
3月25日の開幕戦ではプロ初出場と初ヒットを記録し、4月6日の巨人戦では阪神として2012年以来の本盗を成功させました。
ただし一軍の壁は高く、この年は38試合で打率.190、0本塁打という厳しい成績です。
それでも若さと才能に満ち溢れた横田慎太郎選手の未来は明るく見えました。
闘病生活
横田慎太郎選手は2017年に脳腫瘍と診断され、過酷な闘病を経験しました。
2017年2月の春季キャンプ中、激しい頭痛に悩まされるようになります。
精密検査の結果、脳腫瘍(グリオーマ)との診断が下されました。
22歳、プロ4年目での突然の宣告です。
その後、13時間から18時間に及ぶ大手術を受けることになります。
手術後も抗がん剤治療と放射線治療が続きました。
治療の副作用で髪が抜け落ち、激しい吐き気に苦しめられます。
しかし横田慎太郎選手は「必ずグラウンドに戻る」という強い決意を持ち続けました。
この精神が実を結び、2017年8月下旬には寛解の診断を受けます。
2018年からは育成選手として復帰を目指すことになりました。
引退と「奇跡のバックホーム」
結論から述べると、横田慎太郎選手は視力の後遺症により2019年に引退を決断し、引退試合で伝説のプレーを残しました。
懸命なリハビリを続けましたが、脳腫瘍の後遺症は深刻でした。
視力が回復せず、ボールが二重に見える症状に悩まされます。
プロとして戦い続けることは困難な状態でした。
球団は育成契約の延長を提案しましたが、横田慎太郎選手は自ら引退を選びます。
2019年9月22日、24歳での引退発表となりました。
運命の2019年9月26日、阪神鳴尾浜球場での二軍戦が引退試合です。
9回表2死二塁の場面、センター方向への打球を捕球した横田慎太郎選手は、三塁へ向かう走者を刺すべくホームへ強烈な送球を放ちました。
ボールはノーバウンドで捕手のミットに収まり、見事なアウトを完成させます。
視力に問題を抱えながら成し遂げたこのプレーは「奇跡のバックホーム」と称され、その場にいた全ての人々に深い感動を与えたのです。
引退後の活動と再度の闘病生活
横田慎太郎選手は引退後も活動を続けましたが、腫瘍の再発により2023年に28歳で逝去しました。
引退後は講演活動や病院訪問を積極的に行い、病と闘う人々に勇気を与え続けます。
2020年にはYouTubeチャンネルを開設し、2021年には自伝『奇跡のバックホーム』を出版しました。
しかし2020年9月、脊髄への腫瘍転移が判明します。
再び治療が始まりました。
2022年3月には脳腫瘍が再々発し、入退院を繰り返す日々が続きます。
2023年春に療養に入りましたが、病状は回復することなく、同年7月18日、横田慎太郎選手は28歳でこの世を去りました。
彼の物語は2025年11月に映画『栄光のバックホーム』として公開されています。
主演は松谷鷹也さん。横田選手の魂は映像作品を通じて語り継がれていきます。
横田慎太郎の学歴
横田慎太郎選手の野球人生は小学生時代から始まっています。
各時代の経験がプロ野球選手としての基盤を作り上げました。
なお横田選手は高校卒業後、プロ野球の道に進んでいます。
小学生時代
横田慎太郎選手は小学3年生からソフトボールを始め、礼儀作法と基礎技術を学びました。
東京都で生まれた横田慎太郎選手ですが、3歳で鹿児島県日置市へ移住しています。
湯田小学校3年生の時に東市来町湯田ソフトボール少年団に入団しました。
山田栄一監督(故人)の下で、技術だけでなく人としての礼儀作法も学ぶことになります。
元気よく挨拶すること、保護者へお礼を言うことなど、大切なことを教わりました。
横田慎太郎選手は後に「この時教えられたことが、今も自分の基礎になっている」と振り返っています。
小学6年生では投手として九州大会準優勝という好成績を残しました。
中学生時代
中学時代の全国大会出場経験が、プロ野球選手への夢を確固たるものにしました。
東市来中学校では軟式野球部に所属し、全国大会に出場します。
この大会は横浜スタジアムで開催されました。
プロ球場でプレーする経験は、少年の心に大きな影響を与えることになります。
横田慎太郎選手は「横浜スタジアムで試合をしたことで、プロ野球選手になりたいという気持ちがさらに高まった」と語っています。
父の横田真之氏は「ここなら甲子園へ行ける」として鹿児島実業高校への進学を勧めました。
高校生時代
鹿児島実業高校での厳しい練習が、横田慎太郎選手の不屈の精神を育てました。
2011年に鹿児島実業高等学校へ進学した横田慎太郎選手は、想像を超える厳しい環境に身を置きます。
冬の朝練習で上半身裸のまま雪の上で腹筋をするなど、過酷な練習が続きました。
しかし横田慎太郎選手は「この厳しい練習があったからこそ、不撓不屈の精神を鍛えることができた」と前向きに捉えています。
選手としても活躍を見せます。
1年生の秋から4番打者を任され、3年時にはエースで4番という二刀流でチームを支えました。
投手として最速140km/h超、打者として高校通算29本塁打という記録を残しています。
ただし甲子園出場は叶いませんでした…。
県大会決勝で2年連続敗退という悔しさを味わいます。
それでも「次はプロになって甲子園で活躍する」と前を向きました。
最後の夏が終わった翌日から、横田慎太郎選手はバットを振り続けます。
「育成でもいいから絶対プロに」と決意し、2013年10月24日のドラフト会議で阪神タイガースから2位指名を受けました。
甲子園での活躍という夢を、プロ野球選手として叶える道が開けた瞬間です。
まとめ
横田慎太郎選手は、小学生時代に学んだ礼儀作法、中学時代に芽生えたプロへの夢、高校時代に培った不屈の精神を武器に阪神タイガースで活躍しました。
脳腫瘍という病魔に襲われながらも諦めず、引退試合で「奇跡のバックホーム」という伝説を残します。
その生き様は多くの人々に勇気と感動を与え続けています。
横田選手の物語は映画『栄光のバックホーム』で松谷鷹也さんの主演により映像化され、永遠に語り継がれていくことでしょう。






