天才子役として芸能界に華々しくデビューし、俳優として長年活躍してきた小倉蒼蛙さん。
2022年にステージ4の肺がんという過酷な宣告を受けながらも、奇跡的な回復を遂げました。
その経験を機に、長年親しまれた「小倉一郎」から「小倉蒼蛙」へと改名を決意。
今回は、小倉蒼蛙さんのwiki経歴と学歴、そして肺がんからの回復と改名の理由について詳しくご紹介します。
Contents
小倉蒼蛙のwiki経歴
小倉蒼蛙さんは、俳優、俳人、歌手として多岐にわたり活躍するベテラン芸能人です。
1951年10月29日生まれで、旧芸名は小倉一郎として広く知られていました。
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東京都新宿区で誕生後、生後まもなく鹿児島県の甑島へ移住しました。
小学1年生の夏に再び上京し、板橋区で育っています。
天才子役としてのデビュー
俳優への強い憧れから、小倉蒼蛙さんは9歳で芸能界への第一歩を踏み出します。
1960年に東映のエキストラとして活動を開始しました。
1963年、当時人気俳優だった梅宮辰夫さんの紹介により東映児童演劇研修所に入所。
これが本格的な俳優への道を開くきっかけとなりました。
1964年、石原裕次郎さん主演の映画『敗れざる者』に出演します。
脳腫瘍と闘いながらも希望を失わない少年という難しい役柄を見事に演じ切り、「天才子役」という称号を得ました。
この作品が俳優人生の礎となっています。
俳優としての評価
若手俳優として頭角を現した小倉蒼蛙さんは、独特の演技スタイルで注目を集めます。
柔らかな雰囲気から「へなちょこ日本一」という愛称で親しまれました。
気弱で繊細な青年役において、右に出る者がいないほどの演技力を発揮。
飄々とした佇まいの中に温かい人間性が滲み出る演技が、彼の魅力となっています。
主な出演作品
小倉蒼蛙さんは長年にわたり、数々の映画やテレビドラマに出演してきました。
代表的な作品を一覧でご紹介します。
映画作品
| 作品名 | 公開年 | 監督 |
|---|---|---|
| 敗れざる者 | 1964年 | 石原裕次郎主演 |
| 股旅 | 1973年 | 市川崑 |
| ヒポクラテスたち | 1980年 | 大森一樹 |
| 大鹿村騒動記 | 2011年 | 阪本順治 |
| そして父になる | 2012年 | 是枝裕和 |
| 海街diary | – | – |
| それいけ!ゲートボールさくら組 | 2023年 | – |
| わたしのかあさん 天使の詩 | 2024年 | – |
テレビドラマ作品
| 作品名 | 放送年 | 放送局 |
|---|---|---|
| それぞれの秋 | 1973年 | TBS |
| ヨイショ | 1974年 | TBS |
| 俺たちの朝 | 1976年 | 日本テレビ |
| 昨夜のカレー、明日のパン | 2014年 | NHK BS |
| 富士ファミリー | 2015年 | NHK |
| 老害の人 | 2024年 | NHK BS |
| あんぱん | – | – |
デビュー作『敗れざる者』から最新作まで、幅広いジャンルで活躍。
是枝裕和監督作品など、国内外で評価される作品にも多数出演しています。
2025年現在も精力的に活動を続けています。
がん闘病と「小倉蒼蛙」への改名
2022年、小倉蒼蛙さんに人生最大の試練が訪れます。
ステージ4の肺がんという診断を受け、がんは両肺、胸の骨、脳など複数箇所に広がっていました。
医師からは「余命1年から2年」という厳しい宣告を受けます。
しかし諦めずに治療を続けた結果、約1年8ヶ月の闘病の末に奇跡的な回復を遂げました。
目視できる範囲のがんがほぼ消失したのです。
この経験から「生まれ変わった」という強い思いを抱き、2023年に重大な決断を下します。
長年親しまれてきた「小倉一郎」という芸名を、俳号である「小倉蒼蛙」に改めたのです。
この壮絶な闘病体験は、2025年12月17日放送のテレビ朝日系『徹子の部屋』でも語られ、多くの人々に勇気を与えました。
俳人・文化人としての活動
俳優業と並行して、小倉蒼蛙さんは俳人としても深く活動しています。
1997年頃から俳句の世界に足を踏み入れました。
俳号「蒼蛙(そうあ)」は、脚本家・早坂暁さんから授けられた特別な名前です。
「夢千代日記」や「花へんろ」で知られる名脚本家が命名した号となっています。
2023年には俳句結社「あおがえるの会」を創刊し、主宰を務めています。
2025年3月には句集『優しさの手紙』を刊行し、NHK「ひるまえほっと」の俳句コーナーでも講師を務めるなど、俳句文化の発展に貢献しています。
ギター演奏、作詞・作曲、墨絵、書道など多彩な才能の持ち主でもあります。
私生活では4度の結婚を経験し、現在は子ども5人、孫4人に恵まれています。
小倉蒼蛙の学歴
小倉蒼蛙さんの学歴を見ていきましょう。
幼少期から芸能活動を始めたため、一般的な学生生活とは異なる道を歩みました。
小学生時代
東京都新宿区で誕生後、生後間もなく鹿児島県の甑島へ移住しています。
家庭環境は厳しく、生後わずか1週間で母親を亡くしました。
病弱な父親のもとで育ち、過酷な環境で幼少期を過ごします。
1958年、小学1年生の夏に東京へ上京し、板橋区で育ちました。
1960年、9歳の頃から東映のエキストラとして芸能活動をスタート。
学業と芸能活動の両立という重い負担を背負うことになりました。
中学生時代
中学校は板橋区立志村第三中学校に進学したと推定されています。
1967年3月頃の卒業と考えられます。
中学時代も芸能活動は続きました。
1963年、梅宮辰夫さんの紹介で東映児童演劇研修所に入所します。
1964年には中学生で映画『敗れざる者』により「天才子役」として注目を浴びました。
さらに16歳の時には姉が脳腫瘍で亡くなるという悲しい出来事もあります。
映画撮影と学校生活、家族の不幸が重なる過酷な時期でした。
高校生時代
日本大学豊山高等学校に進学しましたが、中退しています。
東京都文京区にある私立校です。
中退の理由は公表されていませんが、俳優業の多忙さが要因と考えられます。
高校時代にはすでに『青空に叫ぼう』(1968年)などに出演していました。
その後、大学への進学はせず俳優業に専念し、「へなちょこ日本一」として確固たる地位を築いていきます。
小倉一郎から「蒼蛙」への改名の理由
2023年に行われた「小倉一郎」から「小倉蒼蛙」への改名には、深い理由が込められています。
2022年、小倉蒼蛙さんはステージ4の肺がんという診断を受けます。
がんは両肺、胸の骨、脳など複数箇所に転移し、医師からは「余命1年か2年ぐらい」という厳しい宣告を受けました。
しかし放射線治療と抗がん剤による懸命な治療を続けた結果、奇跡が起こります。
複数箇所のがんが完全に消失し、残るがんも小さくなったのです。
この劇的な回復を経験し、「生まれ変わった」という強い実感を持ちました。
「一時は余命1、2年とまで言われて、生まれ変わった気持ちになったものですから」と語っています。
長年親しまれた「小倉一郎」という全国区の名前を手放すことは並大抵の決断ではありません。
しかし新たな人生を歩むという決意のもと、改名を決断しました。
「蒼蛙(そうあ)」は、脚本家・早坂暁さんが命名してくれた俳号でした。
「蒼穹の蒼に、蛙」という風情ある名前は、自然の生命力と再生を象徴しています。
2023年のテレビ朝日「徹子の部屋」で「今回のがんのことで生まれ変わったという気分になりましたもんですから」と説明。
がん克服後に俳句結社をつくり改名しており、俳優と俳人という二つのアイデンティティを統合した形です。
この改名は単なる名前の変更ではありません。死と向き合い、乗り越えた覚悟を示すものなのです。
まとめ
小倉蒼蛙さんは天才子役としてデビューし、「へなちょこ日本一」として多くの作品で活躍してきました。
板橋区立志村第三中学校を経て日本大学豊山高校に進学するも、俳優業に専念するため中退しています。
2022年にステージ4の肺がんから奇跡的に回復し、「生まれ変わった」という思いから、2023年に俳号である「小倉蒼蛙」に改名しました。
この改名は、死を乗り越えた強い決意と、俳優・俳人として新たな人生を歩む覚悟の表れです。



