宝塚歌劇団雪組のトップスターから日本を代表する女優へと華麗なる転身を遂げた麻実れいさん。
wiki風に経歴を辿ると、172cmの長身を活かした圧倒的な舞台姿で多くのファンを魅了し続けています。
学歴においても宝塚音楽学校で研鑽を積み、退団後は「翻訳劇の女王」と称されるまでに。
本記事では麻実れいさんの軌跡を詳しく紹介していきます。
Contents
麻実れいのwiki経歴
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麻実れいさんのキャリアは宝塚歌劇団から始まり、退団後も舞台を中心に輝き続けています。
ここでは時系列に沿って経歴をお伝えしていきます。
生い立ちと宝塚歌劇団への道
麻実れいさんは東京・神田という下町で生まれ育ちました。
周囲には花柳界の雰囲気が漂い、三味線の音や芸者さんたちの姿を見ながら過ごした幼少期は、後の舞台人としての感性を育んでいったのかもしれません。
意外なことに、麻実れいさん自身は当初、宝塚歌劇に全く興味がありませんでした。
「チャキチャキの江戸っ子」を自認していた彼女は、勉強や就職にも消極的な高校生だったそうです。
しかし人生の転機が訪れます。
宝塚歌劇の大ファンだった長姉の強い勧めにより、軽い気持ちで宝塚音楽学校を受験することに。
すると見事合格を果たしてしまったのです。
この偶然とも言える出来事が、日本演劇界に大きな才能をもたらすことになりました。
幼い頃からバレエを習っていたこともあり、素地はあったのでしょう。
1968年4月、18歳で宝塚音楽学校に入学し、歌やダンス、演劇の基礎を2年間みっちりと学びました。
宝塚歌劇団時代
1970年3月、麻実れいさんは宝塚歌劇団に56期生として入団を果たします。
ちょうど大阪万博が開催された記念すべき年で、この年の入団者は例年より多い70名でした。
初舞台は雪組公演『四季の踊り絵巻/ハロー!タカラヅカ』で、入団時の成績は70人中35位という真ん中あたりの位置でした。
ところが入団後、172cmという恵まれた長身とエキゾチックな容貌を武器に、男役として急速に頭角を現していきます。
1971年に星組へ配属された後、翌1972年には雪組へと組替え。
スケールの大きな演技が注目を集め、着実にキャリアを積み上げていきました。
そして1980年、ついに雪組トップスターに就任します。
トップスター時代の麻実れいさんは、まさに宝塚黄金期を象徴する存在でした。
『ベルサイユのばら』のオスカル役をはじめ、『風と共に去りぬ』のレット・バトラー、『あかねさす紫の花』の大海人皇子、『うたかたの恋』のルドルフなど、数々の名作で主演を務め観客を魅了し続けました。
その圧倒的なカリスマ性と表現力は多くのファンの心を掴み、雪組の人気を不動のものにしたのです。
そして1985年4月、惜しまれながら宝塚歌劇団を退団しました。
女優転身後の活躍
宝塚退団後、麻実れいさんは舞台女優として新たな道を歩み始めます。
退団直後に挑んだのは、ミュージカル『シカゴ』のヴェルマ・ケリー役とシェイクスピア劇『マクベス』のレディ・マクベス役という対照的な大役でした。
「宝塚のトップというプライドを捨て、ゼロから始める」という覚悟のもと、大部屋からキャリアを再スタート。
この謙虚な姿勢が、後の大成につながっていきました。
麻実れいさんの真骨頂は、なんといっても翻訳劇での圧倒的な存在感です。
海外戯曲の深い人間ドラマを見事に演じ分け、「翻訳劇の女王」という異名を獲得するまでになりました。
ミュージカル、古典劇、現代劇とジャンルを問わず活躍し、『ハムレット』『オイディプス王』『蜘蛛女のキス』『冬のライオン』『おそるべき親たち』『8月の家族たち』『罪と罰』『ガラスの動物園』など、数え切れないほどの名作に出演してきました。
2020年には22年ぶりとなるミュージカル『アナスタシア』でマリア皇太后役を演じ、70歳を迎えてなお衰えない演技力を見せつけます。
その姿に、多くの演劇ファンが感動を覚えたことでしょう。
映像作品でも才能を発揮しており、2000年公開の映画『十五才 学校IV』では日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞。
テレビドラマ『隠蔽捜査』でのナレーションも高い評価を受けるなど、舞台以外の分野でもその実力を証明しています。
主な出演作品
麻実れいさんの代表的な出演作品を時系列でご紹介しましょう。
宝塚時代の主な作品
- 『ベルサイユのばら』(オスカル役)
- 『風と共に去りぬ』(レット・バトラー役)
- 『あかねさす紫の花』(大海人皇子役)
- 『ジャワの踊り子』(アディナン役)
- 『うたかたの恋』(ルドルフ役)
退団後の主な舞台作品
- 『シカゴ』(1985年)
- 『マクベス』(1985年)
- 『ハムレット』
- 『オイディプス王』
- 『蜘蛛女のキス』
- 『二十世紀』
- 『黒蜥蜴』
- 『冬のライオン』
- 『おそるべき親たち』
- 『炎 アンサンディ』
- 『8月の家族たち』
- 『罪と罰』
- 『ガラスの動物園』
- 『アナスタシア』(2020年)
これらの作品一つひとつが、麻実れいさんの演技の幅広さと深さを物語っています。
特に海外戯曲の翻訳劇での評価は群を抜いており、日本の演劇界になくてはならない存在となっています。
受賞歴
麻実れいさんの輝かしい功績は、数々の受賞歴が証明しています。主な受賞歴をまとめてご紹介します。
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読売演劇大賞最優秀女優賞を2度受賞しているのは特筆すべき業績です。
さらに紫綬褒章や旭日小綬章といった国家からの栄誉、そして2023年の日本芸術院会員選出は、まさに演劇界最高峰の評価と言えるでしょう。
これほど多くの賞を受賞している女優は、日本でも数えるほどしかいません。
麻実れいの学歴
続いて、麻実れいさんの学歴について詳しく見ていきましょう。
舞台人としての基礎を作り上げた教育背景に迫ります。
小学校・中学校時代
麻実れいさんが通っていた小学校や中学校の具体的な学校名については、残念ながら公表されていません。
ただし、東京都千代田区神田出身であることから、地元の学校に通っていた可能性が高いと考えられます。
幼少期の麻実れいさんは、神田明神近くの宮本町で育ちました。
周囲には花柳界の雰囲気が漂い、三味線の音や芸者さんたちの鬢付け油の香りに包まれた環境でした。
芸者さんたちにかわいがられながら育ったという経験は、後の舞台人としての感性を磨く上で大きな影響を与えたのではないでしょうか。
また、幼稚園の頃からバレエを習い始めており、身体表現の基礎をこの時期から養っていました。
踊りへの興味や才能は、早くから芽生えていたようです。
高校時代
麻実れいさんは東京家政学院高等学校に進学し、1968年3月に卒業しています。
この学校は女子校として知られ、家政学や生活科学を重視した教育を行っていました。
高校時代の麻実れいさんは、自身を「チャキチャキの江戸っ子」と評するほど活発な性格でした。
しかし意外なことに、勉強や就職に対してはあまり積極的ではなかったそうです。
そんな彼女の人生を変えたのが、宝塚歌劇の大ファンだった長姉でした。
当初、麻実れいさん自身は宝塚歌劇に全く興味がなかったものの、姉の強い勧めで「軽い気持ち」で受験することに。
ところが蓋を開けてみれば見事合格してしまいます。
この予想外の合格が、日本演劇界に偉大な才能をもたらすことになるのですから、人生は不思議なものですね。
音楽学校時代
1968年4月、高校卒業と同時に麻実れいさんは宝塚音楽学校に入学しました。
宝塚音楽学校は、宝塚歌劇団員を養成する専門学校で、非常に狭き門として知られています。
当時も競争率は約20倍と非常に厳しいものでした。
宝塚音楽学校では2年間、歌唱、ダンス、日本舞踊、演劇、礼儀作法など、舞台人として必要なあらゆる技術と教養を徹底的に学びます。
規律も厳しく、生徒たちは寮生活を送りながら切磋琢磨していきました。
麻実れいさんもこの2年間で、舞台人としての基礎をしっかりと身につけていきます。
幼少期から習っていたバレエの経験も活かされ、確実に実力を伸ばしていったことでしょう。
そして1970年3月、ついに宝塚歌劇団に56期生として入団を果たします。
音楽学校での厳しい訓練が、後のトップスターへの道を開いたのです。
入団時の成績は70人中35位でしたが、その後の活躍を見れば、成績だけでは測れない才能と努力があったことが分かります。
まとめ
麻実れいさんは宝塚歌劇団雪組のトップスターから、日本を代表する舞台女優へと華麗な転身を遂げました。
wiki的に経歴を振り返ると、172cmの長身を活かした圧倒的な舞台姿で多くの観客を魅了し続けています。
学歴では東京家政学院高等学校から宝塚音楽学校へと進み、そこで培った技術と精神が現在の活躍の礎となっています。
紫綬褒章や旭日小綬章の受章、日本芸術院会員選出など、その功績は演劇界最高峰の評価を受けており、今なお第一線で輝き続ける姿は、まさに日本演劇界の至宝と言えるでしょう。



