元阪神タイガースの外野手として活躍した横田慎太郎さん。
彼の家族構成は、父・横田真之さん、母・横田まなみさん、姉・横田真子さんの4人家族です。
そして、父の横田真之さんも元プロ野球選手であり、親子二代でプロの世界に進んだのです。
横田慎太郎さんの闘病生活を支えた家族の絆は、多くの人々の心を動かしています。
本記事では、そんな横田慎太郎さんの家族について詳しくご紹介します。
Contents
横田慎太郎の家族構成
横田慎太郎さんの家族は、父・真之さん、母・まなみさん、姉・真子さん、そして本人の4人で構成されています。
それぞれが印象的な経歴を持つのが特徴です。
父の真之さんは元プロ野球選手として10年間活躍した経験があり、母のまなみさんは元ミス鹿児島という華やかな肩書きを持ちます。
姉の真子さんもバレーボールの選手として全国レベルで活躍した経験があるのです。
まさにアスリート一家と言えるでしょう。
横田慎太郎さんが脳腫瘍と闘う中、この家族は一致団結して彼を支えました。
ホスピスでの生活では4人全員が病院に寝泊まりし、最期の時まで寄り添い続けたといいます。
家族の深い愛情と強い絆が、横田慎太郎さんの闘病生活を支えていたことがわかります。
父親:横田真之さん
横田慎太郎さんの父親である横田真之さんは、自身もプロ野球の世界で活躍した元選手です。
高知県南国市で生まれた真之さんは、明徳高校から駒澤大学へと進学しました。
その後、1984年のドラフト会議で4位指名を受け、ロッテ・オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に入団を果たしています。
右投左打の外野手として、プロの世界で10年間という長いキャリアを積み上げました。
息子の慎太郎さんがドラフト2位指名を受けた際、真之さんは笑顔で「負けました」とコメントしたそうです。
自身の4位指名を上回る評価に、父として嬉しさを隠せない様子が印象的でした。
横田真之さんのプロ野球キャリア
横田真之さんは1985年から1995年までの10年間、プロ野球選手として第一線で活躍しました。
ロッテ時代が最も長く、1985年から1992年まで在籍しています。
デビューイヤーとなった1985年には打率.300を記録し、新人離れした活躍を見せました。
鹿児島でのキャンプで二塁打を放った姿を見た落合博満選手の推薦により、一軍に緊急招集されたというエピソードも残っています。
その後は中日ドラゴンズ、西武ライオンズと渡り歩きました。
俊足巧打の外野手として知られ、通算108盗塁を記録しています。
通算917試合に出場し、打率.279、38本塁打という堅実な成績を残しました。
プロ野球の厳しい世界で10年間戦い抜いた実績は、まさに一流選手の証でしょう。
真之さんの「奇跡の呼び戻し」
横田真之さんが見せた父親としての愛情は、まさに圧巻でした。
2018年5月、神戸のホスピスで食事中に誤嚥を起こした慎太郎さんは、あっという間に意識を失います。
血中酸素濃度が危険な数値まで下がり、危篤状態に陥りました。
その瞬間、真之さんは息子の体に飛びつき、肩をつかんで大声で叫んだのです。
「慎太郎ー!呼吸しろー!息を吐け、吐くんだ!」
その迫力に医師も看護師も唖然としたといいます。
真之さんは慎太郎さんの顔に自分の顔を近づけ、必死に呼びかけ続けました。
すると、その声に反応するかのように、慎太郎さんがゆっくりと目を開いたのです。
徐々に呼吸が戻り、危機的状況を脱することができました。
この「奇跡の呼び戻し」は、父と息子の絆の深さを物語る感動的なエピソードとなっています。
母親:横田まなみさん
母親の横田まなみさんは、元ミス鹿児島という華やかな経歴を持つ女性です。
1988年に真之さんと結婚し、2人の子供を育て上げました。
慎太郎さんの闘病生活では、最も近くで寄り添い続けた存在といえるでしょう。
看病の日々は想像を絶する過酷さだったはずですが、まなみさんは決して弱音を吐かず、息子を支え続けました。
その壮絶な闘病記録は、書籍『栄光のバックホーム 横田慎太郎、永遠の背番号24』に綴られています。
この本は母親の視点から描かれており、後に映画化もされました。
手術後に視力を失った息子の絶望、わずかな光を感じた時の喜び、そして最期の穏やかな時間。
まなみさんの言葉には、母親としての深い愛情があふれています。
慎太郎さんが治療をやめる決断をした時も、「慎太郎の人生だから、慎太郎が決めなさい」と息子の意思を尊重しました。
苦しい決断だったはずですが、それもまた母親としての愛の形だったのでしょう。
息子の最期を看取った際、まなみさんは不思議な体験をしたそうです。
魂が去った息子から赤ちゃんの匂いがしたといいます。
夫も娘も同じことを感じたそうで、家族の絆を象徴するような出来事でした。
姉:横田真子さん
姉の横田真子さんは、弟を応援するために球場を訪れた姿が「美しすぎる」と話題になったこともあります。
真子さん自身も優れたアスリートで、鹿児島女子高校のバレーボール部では全国大会準優勝を経験しました。
その後は鹿屋体育大学という名門校でプレーを続けています。
現在は地元の南日本放送で、情報番組の制作スタッフとして働いているそうです。
弟の慎太郎さんとは対照的な性格だったといいます。
慎太郎さんは几帳面で計画的に物事を進めるタイプでしたが、真子さんは行き当たりばったりな性格。
よく弟から「そんなスタンスでよく生きていけるな」と呆れられていたというエピソードが残っています。
慎太郎さんが亡くなってから1年以上経っても、真子さんは「まだ実感が湧いていない」と語っていました。
横田慎太郎と真子さんの関係性
兄妹の関係性は、お互いを思いやる温かいものだったようです。
性格は正反対でしたが、真子さんは弟の試合を応援するため、何度も球場に足を運んでいました。
慎太郎さんも姉のことを気にかけており、家族の中でユーモラスなやり取りが交わされていたことが伺えます。
慎太郎さんの几帳面さは有名で、電気をこまめに消して回る姿がよく目撃されていました。
先輩選手の入浴中にシャワーを止めて回ったという天然エピソードも残っています。
真子さんにとっては、そんな弟の真面目すぎる性格が微笑ましかったのかもしれません。
ホスピスでの最期の日々、真子さんは東京と神戸を往復しながら弟のそばにいました。
「最後に家族で暮らせたので悔いはありません」という真子さんの言葉には、家族の時間を大切にできた安堵感が込められています。
この期間があったからこそ、今も前を向いて歩んでいけるのだそうです。
誕生日プレゼントはホームラン
高校時代の慎太郎さんは、姉への誕生日プレゼントとして特別なものを用意していました。
それは、ホームランです。
試合で真子さんの誕生日にホームランを打つことを約束し、見事に実現させたといいます。
まさに野球選手らしいプレゼントの贈り方ですね。
このエピソードからは、弟から姉への愛情と、約束を守ろうとする真摯な姿勢が伝わってきます。
物ではなく、自分の力で何かを成し遂げて贈るという発想。
高校生らしい純粋さと、アスリートとしての誇りが感じられるエピソードではないでしょうか。
横田慎太郎と家族のエピソード
横田家の絆を示すエピソードは数多く残されています。
手術後、視力を失った慎太郎さんがある朝「眩しい」と言った瞬間、まなみさんは喜びで涙を流しました。
何度もブラインドを上げ下げしながら、家族全員で光を感じる喜びを分かち合ったそうです。
医師から「光を感じたら視力が戻る」と告げられ、慎太郎さん自身も嬉しそうに何度もブラインドを動かすよう頼んだといいます。
2023年11月、阪神タイガースが38年ぶりの日本一を達成した瞬間のことです。
クローザーの岩崎優投手が、マウンド上で慎太郎さんの背番号24のユニフォームを高々と掲げました。
このユニフォームは遺族からチームに託されたものでした。
この光景をテレビで見ていた横田家の面々は、全員で泣きじゃくったそうです。
息子であり、弟である慎太郎さんの魂が、チームの日本一とともにあることを実感した瞬間だったでしょう。
慎太郎さんの物語は、自著『奇跡のバックホーム』として出版されました。
さらに母親の視点から描かれた『栄光のバックホーム』も発売され、2025年には映画化もされています。
母親役を演じた鈴木京香さんは「素晴らしい清らかな生き方に感動した」とコメントしており、多くの人々に横田家の絆が伝わっています。
家族4人で過ごしたホスピスでの時間は、苦しくも温かい思い出として残っているはずです。
真子さんの言葉通り、その時間があったからこそ、残された家族は今も前を向いて歩めているのでしょう。
まとめ
横田慎太郎さんの家族は、父・横田真之さん、母・横田まなみさん、姉・横田真子さんの4人家族でした。
父もプロ野球選手という親子二代の夢の実現は、家族全員の誇りだったことでしょう。
脳腫瘍という過酷な病と闘った慎太郎さんを、家族は最期まで支え続けました。
父の「奇跡の呼び戻し」、母の献身的な看病、姉の温かい存在。
それぞれの愛情が慎太郎さんの力となり、今も多くの人々の心に感動を与え続けています。






